教師はツラいよ

新米教員生活・本紹介などを主に。

子どもが嫌いで、小学校教師になるなんて夢にも思わなかった私が、小学校教員を志すことになった話。

 教師を志した「きっかけ」と、その後について。

 

 

こんばんわ。つか砂(tsukasuna)です。 

ご覧いただきありがとうございます。

 

今年の夏は、例外的な猛暑でした。

しかし、ツクツクボウシが夏の終わりを名残惜しむように泣き出したかと思えば、

いつの間にか猛暑は過ぎ去り、

気が付けば、キンモクセイの甘い香りが辺りを漂うようになってきました。

f:id:tsukasuna:20181006231634j:plain

 

いつの間に秋がやってきたのでしょうか。

今年の秋の到来は、いささか唐突であるように私は感じました。

 

 

さて今回は、わたしが「教師を志したきっかけ」についてお話ししたいと思います。

 

1.「小学校教師なんてありえない」と本気で思っていた

 

教師を志す―」 

というと、いかにも揺るぎのない、確固たる夢のように聞こえますが、

私が教師を志したのは、実は大学生になってからでした。

教師を志すまでは、自分が小学校の教師になっているなんて想像すらしていませんでした。中学校や高校教師はありとしても、

小学校で子どもの相手をするなんて、まずありえない!

と本気で思っていたのです。

 

なぜなら、

小学生といえば、すぐに鼻水たらすわ、鼻血出すわ…。

話したら話したで、まともに会話が成立しないからでした。

 

そんな理解を絶した子どもたちに四六時中囲まれて仕事をすると考えただけで、

私のこめかみは鈍く疼きました。

 

そんな私が結果的に小学校教師になったのですから、

人生というものは本当に、何があるか分からないものだと改めて思います。

 

高校時代、私が進学先の大学を決めた一番の理由は、

自分の偏差値に見合っていたから」という、

極めてクールな(というか冷めた)理由でした。

 

許してください。本当にただそれだけの理由です。

しかし、「偏差値」という度量衡しか持ち得ていなかった当時の私にとっては、

それが最も賢明でリアルな選択だったのです。

 

2.大学で出会ってしまった「教育」の面白さ

大学に無事合格し、順調に単位を取得していると、

どうやら自分の学部では、「小学校教諭の免許」が取得できる

ということが判明しました。

 

「まあ、教師って公務員だし?とれるものはとっておこうよ」

 

という軽率極まりない気持ちで、

小学校教諭の免許をとるべく勉強に勤しみました。

 

 教員養成系の授業ということで、

周囲には当然、生粋の教員志望者が大勢いらっしゃいました。

 

「小さい頃から小学校教師になるのが夢だった」

という揺るぎない使命感と教育的情熱に満ちた

友人達の澄んだまなざしを見るたびに、

「にわか教員志望者」である私の心は痛みました。

 

そんな心の痛みにも負けず、

免許に必要な単位を取得するべく、

子どもの認知発達や、各種教育論などを受講しているうちに…

やがて、気づいてしまったのです。

 

子どもの「学び」をデザインすることの面白さに。

子どもの思考の奥深さに。 

 子どもの「変容」のダイナミズムに。

 

「子ども」という存在そのものが、

たまらなく不思議で面白い存在だと思えたのです。

「子ども」に対する見方が180度変わった年でした。

 

教員という夢が芽吹いたのは、そこからです。

自分の将来の道が開けたときの

あの新鮮な気持ちは、

今でも忘れられません。

 

3.子どもは、世界の美しさを映す鏡だった

 教員という夢をもってから、私は少しでも経験を積みたいと思い、

子どもと関わることができるボランティアを必死に探しました。

 

「おい、正気か!?

つか砂が教師志望とかありえへん!

だってあんなに子ども嫌い言うてたやん!」

 

同窓会で友人が思わず驚倒するほど、

私はこれまで「子ども嫌い」として名を馳せた存在でした。

 

そんな危険極まりない存在ともいうべき私が、

子ども対象キャンプのキャンプリーダーを遂行したのです。

 

 

すると、何ということでしょう。

 

「あれ…?めっちゃ楽しいな…」

 

そこには、新たな世界が広がっていたのでした。

 

私が初めて参加させてもらったキャンプは、

日帰りのデイキャンプ形式でした。

半日とはいうものの、

○ハイキング

○各種レクリエーション

野外炊飯(カレー作り)

○スイカ割り大会

と、内容が盛りだくさんでした。

 

野外活動自体に関しては、

私は何度も経験があったため、感動は無かったのですが、

 

子どもと一緒にキャンプをする」

これは、私にとって大変新鮮な体験でした。

 

これは教員である現在も思うことですが、

子どもと活動することで、

普段見過ごしがちな些末な感動驚きを再発見することができます。

 

大人なら何気無くやってのけること一つ一つに、

子どもはたくさんの感動や気付きを見出だしています。

f:id:tsukasuna:20181012204026p:plain

例えば、雑木林の中を子どもと一緒に散策していると、

子どもは次々と不思議な出会いをします。

小指の爪の大きさほどのどんぐり。

控え目に傘を広げる赤いきのこ

ふさふさの毛を蓄えたヒトリガの幼虫。

草影にこっそりと生えたカエデの幼木。

 

足元には、こんなに素敵な世界が広がっているのだということを、

子どもの眼を通して私達は再認することになります。

 

子どもには、その幼さゆえに理解できないことが存在することの裏返しに、

子どもにしか理解できない世界観があり、価値があり、感動があると思っています。

 

いわゆる「センス・オブ・ワンダー」と呼ばれるものです。

 

少し大袈裟な言い方になりますが、

 

私にとってキャンプリーダー活動とは、

子どもの眼を通して世界を素朴に捉え直す活動でした。

 

そして教師になった今も、

子どもとともに、身近にある不思議を見付けることを大切にしたいと思っています。

 

今回は、私が教師を志すきっかけと、大学や学外活動で学んだことについて書かせていただきました。

 

ご覧いただき、ありがとうございました。

                             :tsukasuna

 

 

教師が必ず直面するジレンマ~回転寿司屋さんにたとえると~

 

こんばんは。つか砂(tsukasuna)です。

ご覧いただきありがとうございます。

さて今回は、教師という職業が抱える「ジレンマ」についてお話ししたいと思います。

~目次~

1.教えることに付き纏うジレンマ

教師であれば誰でも目を逸らすことができない重大な問題。

それは、

「個」の学びを丁寧に見取りたいという願いと、

「集団」の学びを保障したいという願いに、

常に引き裂かれる運命にあるという問題です。

 「個」と「集団」を同時に教えることの困難です。

 

 

「『子どもをあしらうスキル』は、教師にとって大事な

スキルです」 

大学生時代、ある教授の何気ない呟きに、

教師を志して間もなかった私は、言葉を失いました。

 子ども一人ひとりと真摯に向き合うことこそが、疑いようもなく重要なことであると、

当然のごとく思っていたからです。

 

 

しかし後に明らかになったことは、

子ども一人ひとりと向き合いたい」という理想と、

学級集団全員の教育権を保障しなければならない」という要請の間には、

埋めがたい乖離があるということでした。

 

 これは、「制御された学校空間」における構造的なジレンマといえるでしょう。

 

2.学校という制度の本質的な役割

そもそも”学校制度”(とりわけ「学級制」において)とは、

歴史を辿れば「できるだけ多くの子どもに効率的に同じ知識を伝達するため」に設計された制度です。

当然そこには、「個」に応じた学びという視点がそもそも抜け落ちています。

そこで教師は、自身のスキルによってその乖離を埋めなければならないのです。

新規採用教員が初めに直面する問題は、

この「個」と「集団」のジレンマだと私はにらんでいます。

教員養成系大学を出て、教育の「理想」と「夢」に燃えてやってきた

新規採用の教師は、やがて様々な理想と現実のギャップに苦しむことになるでしょう。 

 

3.新卒採用の教師が陥るジレンマを、お寿司屋さんでたとえてみると

このジレンマをお寿司屋さんでたとえてみます。(不適切かもしれませんが。笑)

f:id:tsukasuna:20181007104220j:plain

学校を、某100円回転寿司チェーン店だと考えてください。

みなさんがご存知のように、回転寿司チェーン店の目標とは、

いかに素早く効率的に、お客様へ同じ品質のお寿司を届けられるか?」です。

その目標のために、回転レーン注文用タブレットなどの設備や、シャリをにぎるアンドロイドなどが惜しげもなく配置されています。

 

ですので、回転寿司チェーンでは、

イクラが軍艦から3粒ほどはみだしていることに激怒したり、

ネタのエビがシャリからずり落ちていることに遺憾の意を表したり、

シャリが機械で作られていることに異論を唱えたりする客は一人もいません。 

効率性・コストパフォーマンスが第一に優先されたお店だからです。

回転寿司とはそういうものだからです。

 

(しかし寿司チェーン店で働く人たちにも、職人としての夢があります。

大量のお寿司を機械でバリバリさばきながらも、

こっそりとシャリを手で握る練習をしたり、

率先して創作寿司を提案し、店の売り上げに貢献したり、

お店の枠組みの中で、自分にできる工夫を見つけ、日々腕をみがいています。)

 

 そんなチェーン店へ、新人(新規採用の教師)が入社してきます。

新人は、「寿司屋とはどうあるべきか」について自分なりの理想をもち、

優秀な成績で調理専門学校を卒業してきた期待の新人でした。

目の前のお客さんに、世界一うまい寿司を握ってあげたい

それが、彼の夢でした。

 

しかしそんな崇高な理想を語る余裕もなく、

現場の目まぐるしさに翻弄され、理想と現実とのジレンマに悩む日々となりました。

「当然だが、お客さんは、目の前にいる一人だけではない。

(いやそれなら、チェーン店でなくて老舗の名店に弟子入りしろよというご指摘もあると思いますが、これはあくまでたとえですので、ご了承ください) 

 

4.まとめ~夢と現実の狭間で~ 

教育現場の話に戻りましょう。

教師にとって、学びを保障すべき子どもは、目の前の一人だけではありません。

とはいっても、集団ばかりを見ればよいというわけではないのです。

ここが最も「技術」の必要な部分です。

教育は、「技術」です。

制度の枠をうまく使いながら、

ときには目の前の「個」に働きかけ、

ときには「集団」にも働きかける技術。

 

私たち教師は、

限られた枠組みの中で、精一杯がんばっています。

 

ご覧いただき、ありがとうございました。 

                      :tsukasuna

 

「教師」とは、本当に「夢がある」職業なのか考えました。

 

こんばんわ。つか砂(tsukasuna)です。

 

今回は、「教師という職業」が果たして「夢」のある職業なのかについて

考えたことの覚え書きです。

 

 

年末年始は、帰省シーズンということで、

多くの旧友と会い、久闊を叙しました。

 

懐かしさを味わい合った後、話題は近況報告へ。

 

仕事の近況の話をすると、申し合わせたように

話題の核は「仕事の愚痴」に収斂していきます。

 

営業がしんどいとか、給料が引かれ過ぎとか、性格が悪くなったとか

まあそんな話です。

 

皆さん、それではまるで

苦行に耐えるために就職した」みたいですね。

 

アホ言うな。と苦笑いする友人。

すると、話の中心は私の仕事のことへシフトします。

 

 

「教師はいいよな。なんか夢があるし。

「そうよね。わたしたちはオトナを相手にしてるから、

 心がどんどん荒んでいくもの。」

 

やや嫌味のようにも聞こえますが、

多くの場合、皆さんは「教師」は「夢がある」仕事だとお思いのようです。

 

私もかつては、

教師という職業に溢れんばかりの夢と希望を抱き、

のびやかに成長してゆく子どもたちの未来に思いを馳せ、

チョークが黒板を打つ「こつこつ」という音に無限の可能性を感じたものでした。

 

 

そして無事教員として採用され、

教鞭をとってから幾何かの月日が過ぎた今。

 

 

「教師は夢のある職業か」という命題について

ひとつ気付いたことがあります。

 

 

 

 

まず、結論から申し上げますと、

 

確かに「教師」という職業は、「夢のある職業」でした。

 

しかし、それは「条件付き」といわざるをえません。

 

 

 

なぜなら、

自分が「これを子どもたちにして(させて)あげたい!」と思う夢を

実現させる時間がほとんど無いからです。

本当に残念ですが。

 

 

 

私は小学校教員ですので、

 

一部を除いて大抵の科目は、担任である自分が授業を構築しなければなりません。

これがけっこう大変です。

日々の授業の中身を用意という最低限の仕事だけで、かなり苦労します。

 

 

ですから、

「子どもたちにこれをして(させて)あげたい!」といった、

「夢」の部分、

普段の普通の授業+アルファを計画し、実行に移すためには、

 

どうしても「時間外労働」をせざるをえません。

(しかし残念ながら教師は、残業代が一円たりとも出ません。)

 

 

 

これが、「教師」は「条件付き」で「夢がある」と申し上げた理由です。

 

 

 

教師という仕事は、本当に夢が溢れています。

 

苦労して準備した授業で、子どもたちの目が輝く瞬間。

何物にも代えがたい喜びがそこにあります。

 

 

しかし教師の「仕事」には、際限というものがありません。

 

教育にノルマはありませんからね。

 

その代わりに、やろうと思えば、どこまででもできます。

 

手間と時間さえ惜しまなければ、無限に工夫ができます。

 

教材の研究には、工夫の余地がありすぎるんです。

 

そこに小さな落とし穴があります。

 

その「工夫の余地」が、ときにわたしたちを悩ませます。

 

 

 

「この授業、こういう教材を準備をしてあげたいなあ。

 でも、もう退勤時間はとっくに過ぎてるな...」

 

 

工夫の余地があるからこそ、

「工夫ができるのにあえてしなかったこと」に対する罪悪感が襲います。

 

しかしだからといって、

あらゆる工夫を試みていては、体が絶対に持ちません。

 

 

 

 

以上のことから、

 

「教師」は、

「夢があること」を実現するにあたって時間を惜しまない人に限り、

「夢がある職業」ということができるでしょう。

 

 

言い換えるならば、

プライベートを削ってまで、教材研究に打ち込める人

(というか、もはや教材研究自体を趣味にしてしまえるスゴい人)

に限り、

 

「教師」は「夢のある職業」となりえるということです。

 

 

夢の話をしているのに、

なんだか夢の無い結末になってしまいましたが、、、

 

 

わたしたちは毎日こんな風に

 

「プライベート」と「子どもたち」との板挟みのなかで

 

なんとか頑張っています。

 

 

 

ご覧いただきありがとうございました。

                 :tsukasuna

 

                

はじめまして。つか砂(tsukasuna)です。

 

みなさん、はじめまして。

つか砂(tsukasuna)です。

 

このブログでは、主に以下の2つについて

記事を書かせて頂こうと思っています。

 

 

①小学校教師生活について

私は現在、とある自治体で小学校教師をさせていただいております。

まだまだ経験が浅く、駆け出しの身分ですが、

働くなかで感じる喜びや驚き、悲哀、矛盾、憤り、不条理について

少しずつ綴っていきたいと思います。

(現場は、色んな意味合いで「大変」です。)

 

 

②趣味のお酒と本について

お酒と本がとても好きです。お酒が趣味って、なんだか終わってますが()、

うまいお酒や読んだ本などをレビューしていきます。

 

以上の2つの内容でお送りします。

お時間よろしければ、どうぞごゆっくりしていってください!

 

 

ご覧いただきありがとうございました。

                :tsukasuna